第三 柿を吐却す
る事
ある時、シャントのもとへ柿を贈る人ありけり。かの所従等、
この柿を食いつくして、イソホが臥したりけ
る懐に一つ二つ押し入れ
て、彼になん負せける。ややあって後、
シャントかの柿を請いいださる。各
々「知らず」と答う。シャント、あやしみ尋ねければ、
各々一口に申しけるは、「その柿を
ばイソホこそ知り侍らめ」と言う。「さらば」とて、イソホを召し出だ
し尋ね給うに、案の如く、懐に
柿あり、「あわや」とこれを糺明するに、イソホ申しけるは、「罪科逃れ難く候。しかりとも、某申さん事を傍輩等に
も仰せつけさ
せ給えかし」と申されければ、シャント、彼が望みをとげさせ給う。
その計略と言っぱ、「各
々傍輩等を御前に召し出だ
され、酒を下されて侍るならば、吐却をせん事あるべし。
その柿を吐却したらん者を、某によらず、その科た
るべし」と申す。シャント、「げにも」と思いて、その計略をなし給うに、掌を
指すが如く、少しも違わず、かの柿を盗み
食いたる者ども、一度に吐却す。さるによりて、イソホは科
なく、傍輩どもは罪を蒙りける。イソホが当座の機転、奇特と
ぞ、人々感じ給いける。
(古活字上04.11〜上05.11) (万治上04.16〜上05.09) (エソポ003)
註:
国字本では、柿を食ったその罪をイソホに負わせるために、「イソホの懐に、柿を入れておく」という細工をしているが、天草版では、
「よい幸いぢゃ、いざこの柿を、両人して取り食う
て、その咎めのあろうずる時は、口をそろ
えてエソポにこれを言い負うせて、こちは空
嘘吹いていて、あれこそ、その熟柿をば食べたれと、はねかきょうずるに、なんの仔細があろうぞ」
となっており、何の細工もしていない。これは、天草版では、エソポは「どもりである」との前提があるので、「どうせ、うまく申し開きはできないだろう」と
犯人は考えたのである。これらのことは、G本などのイソップの伝記にも見られる。一方、国字本では、イソホは「どもりである」というよな前提はないので、
「懐に、柿を入れておく」という細工が必要になったのであろう。
ではなぜ国字本では、「どもりである」という前提がないかというと、それは、天草版の不備に原因があると思われる。本来、G本などのイソップの伝記で
は、イソップはこの後、イシス神に口が利けるようにしてもらえるのだが、天草版では、その部分が欠落しており、いつの間にか口が利けるようになっている。
恐らくこの部分の整合性を保つために、国字本では、最初から「イソホは口が利ける」ということにしたのであろう。
これらのことは、天草版と国字本の親本を想定する上でのヒントになるように思える。仮に両者が同じ親本から生じていたとすれば、イソップの伝記部分に関
しては、天草版の方が、内容的に親本に近いと考えるのが妥当であろう。
「イシス神に口が利けるようにしてもらう」という部分が欠落しているのは、キリスト教の宣教師たちが、異教の神のあからさまな活躍を嫌ったということも
あったのかもしれない。
Index
戻る 次へ
|